二拠点生活 をする編集者の水野 綾子さん

東京を拠点に、編集業やプロデュース業に従事する水野綾子さん。実は熱海の街づくりの活動にも積極的に参加する、二拠点生活 を送っています。どうして、 二拠点生活 を始めるに至ったのか?実際にどのような暮らしぶりになっているのか?根ほり葉ほりお聞きします。

――熱海のご出身なんですね?

熱海駅からローカル線に乗り換えて3駅先にある網代駅近くのお寺で生まれ育ちました。三人姉妹の長女で、大学を卒業して出版社に勤めてからずっと東京暮らし。仕事は忙しいけど楽しいし、そのまま東京暮らしを続けていくのだろうとは思っていました。

正直言えば、高校生の頃には熱海が何もない退屈な場所のように思えていて、早くここから出ていきたいと考えていました。考えが変わったきっかけは子どもが生まれたこと。出産してからは割と頻繁に実家に帰ってきていたので、都内と気軽に行き来できる距離感だなとか、子育てには良い環境だなとか、自分が生まれ育ったお寺って、地域のコミュニティの中心となりうるんだなといった、昔の頃と少しは違った感情を抱くようになっていきました。

――そんな水野さんが、どうして熱海暮らしをはじめることに?

熱海への移住を決意するきっかけとなったのは、父が体調を崩したことにあります。お寺って住職が管理している形なので、後を継ぐ人がいなくなったら私の家系は出ていく必要があり、そこには住めなくなります。だから、三人姉妹のうちの誰かがお寺を継がなければ、実家がなくなってしまう。

でも、私は早々に実家を出て結婚もしていたので、正直、“イチ抜けた”っていう感覚になっていました。いずれは順番的に真ん中の妹が旦那さんを連れてきて継いでくれるだろうなんて、勝手に思い込んでいたんですね。

ところが、ある時、彼女が実家を継ぐことにプレッシャーを感じていると、自分の好きなことができないとぽろっとこぼしたのを耳にしました。自分はこれまで好きなことをして生きてきたので、やっぱり申し訳ないなって。とはいえ、夫は自分の仕事が好きなので、それを辞めてまで僧侶になって欲しいわけではないし、そもそも誰かに期待するのは違くないか?と。じゃあ私が尼さんになろうと決意したんです。

――えぇ??水野さんが僧侶に?マジですか?

はい。剃髪もしてみようかなって(笑)。子育てが落ち着いたら、ちゃんと修行に行きます。でも、ただ継ぐだけではなく、さっきも言ったように、お寺って役割が形骸化してきていますが、地域コミュニティのハブになりうる可能性を秘めているので、現代にあった形でアップデートできないものか?と考えたんですね。だったら、まずは熱海の現状を理解しなくてはと。

結局、10年以上も離れていましたから、この間に熱海で何か起こっていたのか、当事者として理解していない。お寺はその周辺地域の特色によって、役割が微妙に変わってくると思うので、そんな状態では地域に合ったカタチで実家をアップデートできるわけないし、正直、一緒に考えてくれるような仲間が欲しいなとも思ったんです。

それで熱海の街づくりの立役者のひとりに話を聞きにいったら、私がやろうとしていることに共感してくれて。私も、彼らの思いに共鳴して意気投合。あれよあれよと、熱海のコミュニティが広がっていったんです。

子どもの頃は、東京~熱海ってものすごく遠くに感じていたのですが、こうして頻繁に行き来していると、 通勤 も可能だってことがわかってきました。自然環境も豊かで、子育てをするには良い環境だということは、私はもちろん、岐阜の田舎で生まれ育った夫も理解しています。

移住のハードルになるのは「居(コミュニティ)・職・住」だと思っています。なので、将来的に実家を継ぐことを決めた時点から、これら不安要素をひとつずつ整理していったんです。仕事は最初から通うつもりでいましたが、Uターンした時に活かせる仕事は何かと考え、出版社を辞めて転職を決めました。

夫は私の気持ちを理解してくれたのですが、やっぱり彼も自分の仕事が好きだし、忙しい日々を送っています。だから当初は、品川あたりでマンションを借りて住み、週末だけは熱海に帰るなんて話をしていました。

でも、実際に移住してみると、物理的に距離と時間の制限が生まれるので、限られた中で効率よく仕事をしようと言う意識が働くのか、東京で生活していた頃よりも早く帰ってくることが増えました。私も18時には子どもを保育園に迎えにいけるように調整しています。

そういった流れで、東京勤務と熱海で街づくりにかかわっていくという二拠点生活が始まったのです。

――単なる 長距離通勤 ではないところがポイントですね。

そうなんです。私の中では仕事も街づくりも、お寺との向き合いも全部やりたい、続けたいことだったんです。可能性の種を増やすのって重要ですよね。ちょっと前までの日本って、例えば大きな会社に入ったら、それで安泰みたいな風潮がありましたが、もうそんな時代ではないのは誰もがわかっています。

仕事もコミュニティも複数持つことで、自分の生き方をちゃんと自分の意思をもって選ぶことができるし、その選択肢が多い方が安心できるというか、楽しいですよね。だって周囲の都合によって、この生き方を選ばざるを得ないのではなく、自分が好きな生き方を選べるんです。

――確かに。実は自分で選んでいるように思えて、会社や社会、世の中の都合に合わせて選ばさせられている…というケースは往々にしてあります。

私が最初に勤めた出版社では、念願のファッション誌の編集部に配属されたのに、入社してすぐにその雑誌が廃刊になりました。20代前半の社会人になったばかりで、こうして自分の思う通りにいかないことが世の中にはあるということを知ったのは、とても良い経験になりました。

自分らしく生きるためには、自分で決めて、選択しなくては楽しくない。しかも、楽しいことは永遠に続かないので、ある意味、ポジティブなリスク分散が必要になります。リスクを分散して自分の生活を守るというより、自分の生き方を自分で選択するための選択肢を用意するために、自らの手でそういう環境を作るということです。

結局、何が芽が出るかわからないじゃないですか。自分が今、こうして熱海の街づくりに参加しているなんて、出版社で働いていた頃には、まったく想像もしていませんでした。

基本、先のことはあれこれ考えない性格なので…、いうなれば、“波乗り人生”なんです(笑)。でも、10年前にこれだけテクノロジーが進化するなんて誰も思いもよらなかったし、二拠点やリモートワークが気軽にできる時代になるとも想像していなかったですよね。

5年後がどうなっているかなんて誰にもわからない時代です。だったら自分の好きなことをやって、そこで信頼を培って、次にやってくる波にのれば良いと思うんです。20年後のことを綿密に計画してもあまり意味がないかなって。

――そういう考え方って、熱海と東京の 二拠点生活 を送る間に培われた?

そうですね。行き来することで、両方の良いところも、逆に足りないことも見えてきました。どっちが良い悪いではなく、補い合えばいいし高め合えばいいんだという考え方も含め、漠然と持っていたモノが、二拠点生活の中で体系化された感覚です。東京での仕事はもちろん、熱海の人たちと触れ合う中で意識は変わっていきました。人口3.7万人と小さなまちですが、都心に引けを取らないくらい尖っている人たちが多いから、刺激を受けたんだと思います。

それぞれの個性やスキルを生かしながら、“この街を楽しくしたい”と、いい意味でわがままに動いている人が多いです。私は編集経験を熱海で活かしつつ、この二拠点生活から得た、熱海だからこそ可能な新しい働き方の価値を伝えていきたい。
すべては自分の経験から生まれると思っていて、何かを始めるにしても、自分にとってそこに「必然性」があるかどうかは判断軸になります。

子育ての経験があったからこそ、お寺で寺子屋をはじめようと思えたし、地元の高校で授業の枠をいただくようになったのもそう。自分が高校生の時に気が付かなかった熱海の魅力や可能性を若い人たちに伝えて、彼らの選択肢を増やす手伝いがしたいと思ったんです。

熱海に暮らしていて痛感するのは、コミュニティはやる気を押してくれるスイッチだということ。人間ってものすごい人の話を聞いても意外と動かないし、ただ“すごいな”と思って終わってしまいがち。でも、身近な誰かの頑張っている姿には、素直に刺激を受けて“自分もやってやろう”と思えるんです。
先ほど先々どうなっているかは分からないとお話ししましたけど、熱海の中で見たときには「ちょっとだけすごい人」になっていたいと思います。いまできることを動き続けて、“あの人が動いているなら自分も頑張ろう”って思えるポジティブな循環が生まれたら嬉しい。そんな力になれば良いなとは思っています。